学園狂騒曲


ざわざわと騒がしい校舎内。あちこちで流れる音楽に賑やかな人の声。
学園祭二日目は保護者や家族を迎えての開催だ。

外から人が来る為、この日も生徒会と風紀は忙しかった。
生徒会は主に保護者への気配り、おもてなし。
風紀は主に見回りだ。祭りに浮かれて風紀を乱す者もいればこの機会にと陰で動く者もいる。

そんなわけで生徒会も風紀も朝から忙しく動き回っていた。

「…っ…止めて、下さい!」

そんななか生まれた僅かな隙、休憩に入って気の緩んだところを突かれた。
ここは生徒会、風紀関係者以外立入禁止のフロアで一般生徒は立ち入ってはならない。
それを破って自分を壁へと乱暴に押さえ付けてきた不良二人組を、生徒会副会長である桐谷 裕介(キリタニ ユウスケ)は睨み付けた。

裕介の身長は不良二人組とそう変わらない。170前後で黒目黒髪の涼やかな相貌をしている。
今は不快気にしかめられた顔に鋭く細められた瞳。にやにやと下卑た笑みを浮かべる不良達に喧嘩はからっきしな裕介は力では敵わない。

「…っ、信哉!」

だから外聞もなく裕介は同じフロアにいて頼りになる幼馴染みの名を口にした。
橋口 信哉(ハシグチ シンヤ)、この学園の生徒会長だ。

「チッ、黙らせろ」

「僕に触るなっ!んぐ…っ」

しかし、その声は不良の掌に抑え込まれてしまう。

「コイツ、本当に会長と付き合ってんだな。名前なんか呼んじゃってよ」

「今は学祭の最中だ。誰も助けになんか来ねぇ…っ、ぐぁ―!?」

余裕の表情を浮かべにやにやと厭らしく笑っていた不良がいきなり裕介の視界から消える。

「え…?」

「ってめぇ!」

音もなく不良の後ろに現れた私服姿の男は逆上して殴り掛かってきた不良をいとも簡単に倒してしまう。

「見たとこ先輩か?くだらねぇ真似してんじゃねぇよ」

動いた拍子にふわりと揺れる金の髪。廊下に転がした不良達を見下ろす切れ長の黒の双眸。
その目が動けずに立ち尽くしていた裕介へ向けられ、ゆるりと優しく細められた。

「大丈夫だったか先輩?」

「あ…っ、あぁ。ありがとう」

男と目が合った途端、裕介の鼓動はどくりと強く脈打つ。かぁっと顔に熱が昇りそうになり、裕介は慌てて誤魔化すようにふわりと綺麗な笑みを浮かべた。

「貴方が来てくれて助かりました」

「…っ、いや。俺はたまたま兄貴に呼ばれたからで…」

ふぃと男は耳を赤くして裕介から視線を反らす。
その反応に裕介が首を傾げて口を開こうとした時、裕介には聞き慣れた声が耳に飛び込んで来た。

「―裕介っ!何処だ!何処にいる裕介!」

それは裕介が求めた幼馴染みの声。
滅多に聞くことのない信哉の切羽詰まった声だった。

「信哉!」

裕介の声は届いていたのか、普段は綺麗にセットされている赤メッシュ入りの髪を乱して信哉は祐介の元へ駆けて来た。

「お前っ…無事、だったか…。あれほど、一人にはなるなと…」

信哉は裕介より少し身長が高く、裕介の側にいた男に気付くと鋭い一瞥を向ける。

「お前は―…」

しかし、信哉が何かを口にするより先に裕介が慌てたように口を挟んだ。

「彼が僕を助けてくれたんです。だから、信哉…」

「会長ともあろう者が廊下を走るな」

裕介の続く言葉は不意に背後からかけられた深みのある声に遮られた。
キリリとした面立ちに清潔感のある黒髪。若干制服の首回りを着崩した男の登場にその場にいた面々は様々な反応を見せた。

「チッ、風紀か…」

「水無月委員長」

「兄貴」

現れたのは生徒会とは対になる組織。風紀委員長の水無月 将馬(ミナヅキ ショウマ)だ。
三人の元へ近付いた水無月はその場にいる面子と廊下に転がる不良を見下ろし、おおよその検討をつける。

「これをやったのはお前だな、有馬」

確信を持って向けられた目に裕介を助けた私服姿の男、有馬(アリマ)は居心地悪そうに頷く。

「水無月。信哉にも言いましたが彼は僕を助けてくれたんです。処罰なら騒ぎを起こした僕が代わりに受けます」

有馬を庇うように前に出た裕介に水無月は微かに目を見開き、庇われた有馬も驚いて裕介を見る。

「馬鹿言ってんな。処罰を受けるのはソイツが伸した不良共だけだ」

常にない幼馴染みの行動に驚きつつも呆れた様子で信哉は切って捨てた。

「そうだろ…水無月」

そして鋭い視線を信哉は水無月に投げる。
敵意にも近い視線の鋭さに怯むこともなく水無月は頷き返した。

「あぁ。風紀が捕まえるのは加害者だけだ」

それを聞いて裕介はほっと表情を緩めた。

「生徒会はまだ忙しいだろう?話は有馬から聞く。お前達は仕事に戻れ。有馬はこいつらを風紀室まで連れてこい」

「はいよ」

さっさと踵を返した水無月に有馬はちらりと裕介に視線を投げたあと大人しく従う。

「あ…」

「戻るぞ、裕介」

裕介は何処か名残惜しげに声を漏らしたが、信哉の声に重なり誰にも届くことはなかった。



二日間の日程で無事学園祭が終了した後、生徒会は学園祭で動いた資金や協力業者への対応、他にも細々とした後処理に追われていた。
その中で会長である信哉は幼馴染みでもあり、副会長を務める裕介の様子をつぶさに観察していた。

(裕介の奴、学園祭以降何かおかしいんだよな…)

テキパキといつも通り書類を処理している様に見えるが、ここ数日で溜め息の回数が増えた。その上、時おり遠くを見るようにぼんやりすることがあった。

信哉の視線の先でガタリと椅子を鳴らして立ち上がった裕介が振り向く。

「少し休憩にしましょう。飲み物は何が良いですか?」

「コーラ」

同じく仕事をしていた会計と書記にも声をかけ、裕介は生徒会室内に設けられている給湯室に入っていく。
その姿を目で追って信哉は椅子に座ったまま腕組みをした。

「う〜ん。分からん。聞いてみるか」

ほどなくして首を傾げた信哉の前にコーラが置かれる。

「はい、どうぞ」

「あぁ、さんきゅ」

他二人にも飲み物を配り、裕介が自席に戻ろうとした所で信哉は裕介を呼び止めた。
不思議そうな顔をして机の前に立った裕介へ信哉はストレートに話を切り出す。

「お前、何かあったろ。学園祭以降」

「えっ…!?」

すると裕介は分かりやすいほど反応を返して、かぁっと目元を赤く染めた。

「お前…」

「…っ、僕、そんなに分りやすかった?」

「まぁ…な」

「そっか。やっぱり信哉に隠し事は出来ないな。…実は」

いつにない幼馴染みの様子に信哉は驚きつつも言葉を飲み込む。おずおずと口を開き始めた裕介の言葉に信哉は耳を傾けた。

「僕…二日目の学園祭で一目惚れしたみたいで」

(誰にだ?)

「その人の事が頭から離れなくて。もう一度会いたいなとか、今度はきちんとした形で話がしたいんです」

(だから誰にだ?)

「僕を助けてくれたお礼もまだしてないし…名前も。あ、でも、水無月委員長に聞けば…」

「アイツの弟かっ!」

だんっ、と机を叩きいきなり大声を上げて立ち上がった信哉に裕介はぎょっとして一歩引く。

「し、信哉?」

「そうか、水無月 有馬か。確か奴は一個下で他所の学校で生徒会長をしてるとか…。まぁ、お前の相手としては申し分な…」

「彼を知ってるんですか、信哉!?」

立ち上がった信哉に裕介は机越しに詰めよりずぃっと顔を近付けた。

「知ってるというより…アイツのこと調べてたらついでに知ったというか」

裕介の迫力に信哉はついぽろりといらぬことまで口に出してしまう。

「アイツ…?」

「はっ!?いやいや、何でもな…」

我に返り慌て出した信哉に怜悧な光を帯びた涼やかな双眸が返される。

「もしかして水無月委員長の…。まさか、信哉、委員長の事が好…」

「そ、それ以上言うなっ!」

今度は逆に信哉が耳を赤く染めた。
会長、副会長の様子に会計と書記は頷き合って、気を利かせて静かに生徒会室を抜け出す。
それに気付かず裕介は自分のことのようにぱぁっと表情を輝かせた。

「まったく気付きませんでした。信哉はいつから委員長のこと」

「うぐっ、い、何時だっていいだろ!俺のことよりお前は自分のこと気にしろよ!」

「はぁ…でも。信哉の話を聞くとその彼は他高生みたいですし。そんな簡単には会えそうにないですね」

信哉達の在籍する学園は全寮制の男子校で、都心からは片道三時間はかかる山奥に建っていた。
学園祭だったからこそ彼も来たのだと裕介は一気に萎れた気持ちで言葉を落とす。シュンと気落ちした裕介に信哉は力強く言い放つ。

「向こうが来ないならこっちから行ってやればいいだろ」

「信哉…?」

「時期的に向こうも学祭がある筈だ。うちの学祭が早いだけでソイツの通ってる学校はまだこれからかもしれない」

ふっと自信に満ちた笑みを浮かべる信哉に裕介も期待を胸に抱く。

「じゃぁ…」

「会えるぞ。水無月に弟の学校と場所を聞いてきてやる。お前はここで吉報を待ってろ」

「はい」

堂々とした足取りで信哉が生徒会室を出て行き、その背を頼もしく感じながら裕介は見送った。

「また彼に会える」

きらきらと瞳を輝かせ拳を握って小さく喜んだ裕介ははたと、何かに気付いて動きを止める。

「…信哉。委員長に聞きにいくって、妙な誤解を生まなきゃいいんですけど」

自分で聞きにいった方が良かったかもしれないと後になって裕介は思った。
そして裕介の予感は見事に的中していた。

滅多なことがない限り風紀委員会室に現れない会長が、これまた珍しく委員長を指名して風紀の応接室に腰を下ろしていた。

「学祭の時の風紀の報告書ならもう少しで生徒会に上げられると思うが…まさか報告書の催促に来たわけではないだろう?」

戸惑う委員達を横目に、風紀委員長である水無月は信哉の電撃訪問にも冷静な態度を崩さぬまま、テーブルを間に挟み、正面のソファに座った信哉を相手に口を開く。

「そんなことより大事なことだ」

「会長であるお前が学祭のことより大事なこととは」

信哉の真剣さが伝わったのか水無月も真剣な表情になり、話を進める為に問い掛けた。

「わざわざ俺を指名したということは俺に関係することか?」

「あぁ…」

「言ってみろ」

流されるように主導権を奪われていたが、信哉はそれに気付かず促されて本題に入る。

「二日目の学祭に来てたあの男、お前の弟だよな?」

「…有馬か。それがどうした?」

「俺達より一学年下で他高に通ってるよな?」

「……そうだが」

「通ってる学校はどこだ?」

問う声に熱が混じり、聞き漏らすまいと自然と信哉の体が前屈みになる。
その熱心さに水無月の片眉がぴくりと小さく跳ねた。

「……そんなこと知ってどうする」

ひやりと漂い出した冷気にも気付かず、言い渋る水無月に信哉は不満そうな声で答える。

「会いに行くんだよ」

裕介が、とは心の中だけで呟く。

「………何の為に?」

「何のって…馬鹿、考えれば分かるだろ。とにかく学校名と場所を…」

幼馴染みである裕介のことを考えるあまり信哉は詳しい内容をすっとばして話してしまい、冷ややかな眼差しに変わった水無月の様子に気付かない。

「お前には絶対教えん」

「はぁっ!?何でだよ?」

だから、問答無用で断った水無月に信哉は強い反発を覚えた。
ソファから立ち上がりテーブル越しに水無月に詰め寄る。

「学校名だけでも教えろ!したら後はこっちで調べるからよ!なぁ、水無月。頼む!」

そう簡単に頭など下げそうにない信哉の頼むと言う一言に水無月は忌々しそうな顔をした。

「そこまで会いたいのか」

「あぁ」

水無月に詰め寄ったことで間近で絡むことになった視線に今さらになって信哉はどきりと鼓動を跳ねさせる。

(やば…っ、近すぎる)

距離を意識し始めて熱くなりそうな頬に信哉はそっと身を退こうとして返された言葉に動きを止めた。

「有馬を好きになったのかお前」

「え…」

「俺に頼んでまで会いたいとは…そういうことだろう?」

唇を歪めて、射るような眼差しで信哉を見てきた水無月に信哉の胸にズキリとした痛みが走る。

「まぁいい。俺には関係ないことだな。…それで有馬の学校だが、有馬は」

「…が…う。違うっ!」

やっと教えてくれる気になった水無月の言葉を遮り、信哉は自分でも分からぬまま声を上げていた。
ただ、さっきまで信哉を映していた目が、信哉を見ているのに見ていない。
関係ないと、水無月に拒絶されたような気がして信哉は違うと繰り返した。

「何が違うんだ。別に隠さなくても言い振らしたりは…」

「隠してなんかねぇ!お前こそ勘違いすんな!有馬に会いたがってんのは裕介で、俺が好きなのはお前だ!そこんとこ間違えんな!」

「……はっ…?」

ぽかんと凛々しい男前の顔が間抜けな面を晒し、思い余って想いを告げてしまった信哉はハッと我に返って顔を赤く染める。

「橋ぐ…」

ばちりと至近距離で目が合って、水無月に名前を呼ばれそうになって、頭の中が真っ白になった信哉は無意識にぐっと右拳を握った。

「…う…っ〜〜今のは忘れろ!」

そして水無月目掛けて問答無用で拳を繰り出す。
シュッと鋭く空気が動いた後バシンッと乾いた音が室内に響く。

「ってぇ…」

信哉の繰り出した拳を水無月は左掌で受け止め、その威力に眉をしかめる。それを見て更に後に引けなくなった信哉が次の行動を起こそうとして、ソファから立ち上がった水無月に掴まれた手を強く引っ張り上げられた。

「――っ」

バランスを崩し、近付いた顔に信哉は咄嗟に逃げるよう目を瞑る。やんわりとした温かな感触を唇に感じ、信哉は閉じた目を直ぐに見開いた。

「忘れられるわけないだろ。…好きな奴から告白されて」

「みな…っ」

触れて離れた目の前の唇が囁くように言葉を紡ぐ。

「俺もお前が好きだ」

「う…っそだ…」

かぁっとみるみるうちに信哉の顔が赤く染まっていく。素直に想いを受け入れない信哉に水無月は思い知らせるように熱っぽい声で続けた。

「信じられないというならお前が信じられるまでキスしてやろうか?」

びくりと信哉の肩が震える。

「お…まえ…、そんなキャラだったか?」

ふいと視線を反らして呟いた信哉に水無月は物騒な言葉を吐く。

「知らなかったか?俺は据え膳は食べる主義だ」

ジッと横顔に感じる水無月の鋭い視線に信哉は食われそうな錯覚を覚える。
二人の世界を繰り広げる委員長と会長に、同じ室内にいた副委員長がわざとらしい咳払いを二度、三度繰り返した。

「はっ…」

慌てて周囲を見回す信哉に水無月は少し残念そうな顔をして信哉から手を離す。

「とりあえず最初から話せ、橋口」

どさりとソファに腰を落とした水無月に促され、ややあってから信哉も座り直す。
ちらりと水無月の様子を気にしながらも信哉は風紀委員会室に足を運ぶことになった経緯を説明し始めた。

 

◇◆◇

 

「………と、いうことなんだ。俺は裕介に幸せになって欲しい」

「…なるほど。話は分かった」

すらりと長い足を組み、信哉の話を聞いた水無月は深く頷く。そして懐に手を入れ携帯電話を取り出した。
指先が画面に触れ、画面の上を滑る。

「おい?」

無言で携帯電話を操作し始めた水無月に信哉は訝しげな目を向けつつ、心の中では別のことを思う。

(そういや俺、水無月の番号とアドレス知らねぇ…)

画面の上を動いていた指先がピタリと止まったかと思えば、信哉の目の前に携帯電話が差し出される。

「見てみろ。有馬から来たメールだ」

 
9/23 12:42

From水無月 有馬
Sub兄貴のケチ!
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連絡先教えてくれねぇならうちのガッコの学祭に連れて来てくれよ!次の日曜にあるから。そん時に自分で聞く。

 
見せられた文面に信哉はまさかと水無月へ視線を流す。

「これは…」

「学祭の後、有馬が寄越したものだ」

他にもと言って水無月は有馬から来た関係ありそうなメールを一通り信哉に見せてくれた。

「なに…、このメール見る限りアイツらもしかしなくても両想い…か?」

「お前の話を聞く限りな。有馬の奴あの日ここで桐谷に一目惚れしたとか騒いでいたからな」

「それならその日の内に会わせてやれば良かったじゃないか」

「あの日は風紀も忙しくてな。有馬があまりにも煩かったんで苛ついて沈めてしまったんだ」

「沈め……」

さらりと世間話でもする口振りで言われた言葉に信哉はゾッと背筋を震わせる。
そういえば、水無月は至近距離から繰り出した信哉の拳を簡単に受け止めた。

「水無月…お前不良だったのか?」

「不良になった覚えは一度としてない。武道はたしなむ程度だ」

「あ…そ」

「不良というなら有馬の方だ」

「えっ」

水無月は役員に目配せをして信哉の前にコーラを、自分の前に紅茶を持ってこさせる。

(あれ?俺、コイツにコーラ好きだって言ったことあったか?)

しゅわしゅわと音を立てる炭酸に信哉は驚いてばかりいた。
それが顔に出ていたのか水無月はふっと優しく表情を緩めると言った。

「好きなんだろコーラ」

知ってると言外に告げる眼差しに信哉はそわそわしだして誤魔化すように話を続けた。

「で、弟が不良ってどういうことだ?」

「それはだな…」


◇◆◇


洛嶺(らくれい)男子高等学校。
洛嶺祭と華々しく飾り立てられた看板の下に私服姿の信哉と裕介、水無月の姿があった。

「その有馬くんとの待ち合わせ場所は…」

ちらりと裕介から視線を向けられた水無月は裕介に対しいきなり爆弾を落とす。

「有馬にはお前らが来ることを言っていない」

「えっ、言ってないんですか?」

信哉が口を挟まないことから信哉も知っていたんだろうと裕介は戸惑う。
しかし、それを払拭するように信哉が言い添えた。

「その方が有馬のことを知れていいだろう?お前、有馬の学校生活見て見たくないか?」

「それはっ…見たいです」

「よし、決まりだ。水無月案内しろ」

裕介の言質を取った信哉は自信に満ち溢れた顔を水無月に向ける。
それを受けて水無月も優しく表情を崩した。

「分かった。着いて来い」

ふわりと漂い出した甘い空気に裕介は一人、申し訳ない気持ちになった。

信哉と水無月が付き合い出したのは裕介の一件があったあの日からだ。
生徒会室に戻ってきた信哉の様子が何処と無く浮かれたものだったので裕介は聞いたのだ。

そうしたら、
《水無月と付き合うことになった》
と、耳を赤くしながらも嬉しそうに信哉は話してくれた。
そればかりか信哉は有馬の学校名と場所、一緒に着いて来てくれるとまで約束してくれた。
初めて出来た恋人と過ごす休日よりも幼馴染みの恋を優先してくれた信哉と、そんな信哉を丸ごと受け入れ協力してくれた水無月に裕介は感謝してもしきれない。
並んで先を歩き始めた信哉と水無月の背を裕介は温かな眼差しで見つめていた。

「有馬は二年F組だから教室…で?」

「どうした橋口。ん?二年F組、コスプレ写真館?」

「…コレ、面白いのか?」

「内容にもよるな」

仲良くパンフレットを覗き込む二人に裕介は遠慮がちに口を挟む。

「僕は見に行きたいです」

「そうだよな。じゃ、見つからないように行こうぜ」

「あぁ」

ちらちらと周囲から向けられる視線に水無月だけが気付いていたが、どこかわくわくとして悪戯染みた笑みを浮かべた信哉の横顔にあえて注意はしなかった。
種類は違えど整った顔立ちの三人は集まった時点で何をせずとも目立っていた。

そして、辿り着いた二年F組は異世界だった。
着ぐるみもいれば女装もいる。何のコスプレか、似合ってる人もいれば見てはいけないものを見てしまった気分にさせられるような者までいた。

「この中にいるか?」

「…いないな。アイツどこ行ったんだ?」

ちょっと聞いてくると、水無月は異世界と化している教室内へと躊躇わず入っていく。

「信哉、ありがとう」

「ん?」

「僕一人で悩んだままだったらきっとここまで来れなかったよ。だからありがとう」

ふわりと爽やかに笑った裕介に信哉もふっと笑う。

「礼を言うなら有馬に会ってからにしろ」

「…!それもそうだね」

楽しそうに話をする二人にさっさと教室から出てきた水無月は声をかけた。

「有馬の居場所分かったぞ。アイツ、生徒会で出し物するらしくて今体育館にいるそうだ」

「へぇ、ここって生徒会も出し物するんだな」

「何をやるんでしょう?」

体育館方面へと足を動かしながら会話を交わす。

「それは見てからのお楽しみって奴だな」

「知ってるのか水無月?」

「場所を訊くついでに聞いてきた」

そうして一度校舎の一階に戻り、体育館へと続く渡り廊下を進む。遠目から確認できる範囲では体育館の扉は閉められており、上部の窓にはカーテンが引かれていた。
中では何がと首を傾げた信哉と裕介だったが、完璧な防音設備の無い体育館では建物に近づけばその音が漏れ聞こえてきていた。

「もしかしてライブ会場ですか?」

「生徒会主催、軽音楽部・吹奏楽部協賛の演奏会だそうだ」

裕介の言葉に水無月は頷き返し、体育館の扉を開ける。
途端に中から様々な音が飛び出してくる。

体育館の中にはパイプ椅子が並べられた前列の椅子席と後列、出入口近くの立見席と二つに区分けされていた。
また、椅子席は主に来場者用の席なのか、私服姿の人が多く、立見席にはこの学校の生徒と思われる制服姿の男子達が多かった。

三人の視線がステージ上でライブを行っているバンドに向けられる。
そして、そのバンドメンバーの中に裕介は有馬の姿を見つけた。
派手な金髪がライトの下できらりと光る。肩から掛けられた楽器はベースだろうか。マイクを持ったボーカルが有馬の傍まで寄ると二人は楽し気に笑い合い、演奏のテンポが上がる。

じっとステージ上を見つめる裕介に、信哉はバンドの音に掻き消されないよう水無月の耳元に顔を寄せて口を開く。

「おい、お前の弟の隣にいる奴誰だ?」

赤茶色に染めた髪をひょこひょこと跳ねさせたボーカルの男は歌いながら次にドラムを叩いている男に絡みに行く。
ステージから目を離した水無月は横目でステージを窺いながら質問してきた信哉に、同じく顔を寄せて至近距離で喋る。

「悪いが弟の交友関係に興味はない」

「つまり知らねぇってことか」

役に立たない返答に信哉はステージから水無月に顔を向けて、その距離の近さに今更気付く。どきりと鼓動を跳ねさせ、はっと息を呑んだ信哉に何だと水無月は首を傾げる。
そんな信哉の窮地に気付いたわけではないだろうが、そこへ裕介が声を掛ける。

「大丈夫だよ信哉。ありがとう」

こちらの話が聞こえたわけではなく、裕介は自分の幼馴染の性質を良く知っているので、何となく信哉が考えそうなことを裕介は考えて先に口にしたらしかった。

「だって僕はまだ何もしていないから」

有馬君の世界に僕が居ないのは当たり前だ。けれど、それはこれからの僕の頑張りしだいでちょっとは変えられるはずだよね。

「裕介…、あぁ」

凛と強く前を向く裕介の姿勢に信哉も強く頷き返す。

その間に演奏は止んでおり、ステージ上ではバンドを代表してか有馬がマイクを握っていた。
そこで有馬は生徒会長として来年の新入生募集の案内をアナウンスして、自分の役目を終えようとした。

「その通りだな。健闘を祈る桐谷。…行くぞ、橋口」

「えっ?ちょっ、おい、待て!水無月!裕介はどうすんだよ!」

「有馬に任せておけ。アイツがいれば大抵の事は大丈夫だろう」

ざわりと騒がしくなった体育館の出入口に、ステージ上からそちらに目を向けた有馬はその瞬間目を見開く。
兄貴!とそう思わず叫びそうになって手にしていたマイクを咄嗟に遠ざけた。

そしてその兄が他校で見かけた人物の腕を引いていることに気付き、まさかと思って有馬は兄がいた周囲に目を走らせた。
するとそこには自分が思い浮かべた人物もいて…。
ろくにメールの返事も寄越さない横暴な兄貴もたまには気が利くじゃねぇかと小さく心の中でガッツポーズをする。
同時に有馬はその人物が体育館から出て行く前に接触しようと決めた。

ちょうど良いことに自分の役目もこれで終わりだ。
後をボーカルを務めた軽音楽部の部長にパスし、有馬は素早く舞台袖に引っ込む。
声を掛けて来る仲間達には急用が出来たと告げ、薄暗い体育館の中を足早に出入口に向かって進んだ。

「まだ、待っててくれよっ」

来場者席を立った来場者に交じって出入口まで急いで来た有馬は、先程ステージ上から見つけた人物を探して首を巡らす。

「有馬君…で、いいのかな?」

すると人波を避けて壁際に移動していた人物の方から声を掛けられた。
まさか相手から声を掛けられると思っていなかった有馬は驚いてそちらを振り向く。
有馬の視線の先では首を傾げた裕介が、有馬の返事を待っている様だった。

「あーっと、呼び捨てでいいっす」

むしろ呼び捨ててもらった方が自分は嬉しいと、有馬は驚きが抜けきらぬまま素直に自分の要求を口に出していた。
それを聞いた裕介はきょとんと瞼を瞬かせた後、ふわりと嬉しそうに笑みを零す。

「ありがとう、有馬。僕は桐谷 裕介、三年。この間は本当にありがとう。助けてもらったのにお礼もろくに出来なくて」

「いや、別に。あれは俺が無視できなくてやったことだし」

仄かに耳を赤くして有馬は裕介からやや目線を反らして裕介のいる壁際まで近づいていく。

「うん。それでも僕は嬉しかったから。今日は水無月に無理言って連れてきてもらったんだ」

続けて裕介の口から出てきた名前に有馬はステージ上から見えた光景を思い出す。

「兄貴と確かもう一人…」

「僕の幼馴染で橋口 信哉って言うんだ。信哉ともこの間、顔を合わせたと思うけど、今日は僕を心配して付いて来てくれたんだ」

幼馴染という近しい関係に有馬は微かに眉を寄せたが、ほぼ初対面の裕介に悪印象を与えたくない有馬はぐっと聞きたいことを我慢して自分達の周囲を見回す。

「…その割には姿が見えないっすけど、兄貴達は何処に?」

「信哉達は二人で回るって」

気を利かせてくれた水無月に感謝している裕介とは対照的に、何も知らされていない有馬は兄の所業にぎょっとして厳しい表情を浮かべた。

「なっ、こんな危ない所に先輩一人置いてったのかよ!」

信じらんねぇと零した有馬にその意味が分からない裕介はただ首を傾げる。

「危ない?でも、水無月は有馬がいれば大抵の事は大丈夫だと言っていたけど?」

「〜っ、兄貴の馬鹿野郎」

兄経由ではあるが、裕介から寄せられた信頼に有馬は堪らず、ここにはいない兄へと八つ当たりをする。
しかし、任された以上はここで悪態を吐いていても始まらない。何よりこれは有馬にとって裕介と親しくなるチャンスでもある。
有馬は真っ直ぐ裕介の顔を見ると真剣な面持ちで言葉を紡いだ。

「分かった。先輩のことは俺が守るよ」

「…ぼ、僕も出来るだけ気をつけるね」

急に真剣な眼差しで射抜かれた裕介はどきりと鼓動を跳ねさせ、じわりと赤くなった顔を隠す様に俯いた。

「じゃぁ、ひとまずこっから出て校内回らないっすか?」

案内すると言う有馬の申し出に裕介は頷き返すのが精一杯だった。
そして二人は体育館を出て、校舎内を回り始めたのだが…

「あれ?有馬さん、今日は珍しく毛色の違う人連れてるんすね」

「バカ!先輩に失礼だろうが!」

有馬は中々に人気者なのかやたら行く先々で声を掛けられている。
一年の階にいた学生は有馬に対してやたら謙虚な姿勢で、恐れているような素振りすらあった。
そんな中でも裕介はマイペースにこの間のお礼だと言って有馬に主に食べ物を貢いでいた。

「ごめんね。こんなお礼しか出来なくて」

「いやっ、俺は先輩が俺に会いに来てくれただけでめちゃめちゃ嬉しいっすから」

「そう?…それなら僕も嬉しい、かな」

二年の教室が並ぶ階でクレープを買って食べ歩きしながら二人は無意識に良い空気を作り出していた。
だが、残念なことにその空気は長続きしなかった。

「水無月会長!大変です!」

風紀委員の腕章を右腕に付けた生徒が慌てた様子で廊下を走って来たのだ。

「何があった」

ふっと鋭く細められた眼差しが走って来た風紀委員を咎めるように貫く。
その鋭い視線に風紀委員の生徒は息を詰め、自分の失態に顔を青ざめさせた。
それでも有馬の問いに答えるべく口を開いた。

「三年B組に屋台荒らしが出ました!」

「あそこは確か射的屋…だったな」

「はい。外部からの二人組の客が争う様に次々と景品を落としていて、このままでは屋台が成り立たなくなると三年B組の主催者から緊急連絡が」

話を聞きながら歩き出した有馬に自然と裕介も付いて行く形になる。

「そんな迷惑な客、帰ってもらえばいいだろ」

「それが相手方の方が口が上手くて…何とも」

頼りない三年に有馬の口から舌打ちが漏れる。

「えっと、大丈夫、有馬?」

それを聞き咎めて裕介は有馬に声を掛けた。
そこで有馬は裕介が一緒に居たことを思い出す。
つい、生徒会長モードというか、この学校のトップに立つ不良モードに入ってしまっていた。
有馬はガシガシと金髪の頭を掻くと裕介に真剣な目を向ける。

「先輩は絶対に俺の側から離れんなよ」

「…うん」

そして、辿り着いた三年B組の教室には人だかりが出来ていた。

「これで俺の勝ちだな」

「っ、今のは卑怯だぞ水無月!」

有馬は中から聞こえてきた聞き覚えのある声に片眉を吊り上げる。
有馬の直ぐ隣にいた裕介も聞き覚えのありすぎる声に目を丸くした。

「二人組ってまさか…」

有馬は教室の入口に出来た人だかりを押し退けると三年B組の教室に足を踏み入れ、裕介もその後に続いた。

「誰が人の邪魔したかと思えば、…兄貴!何やってんだよ!」

「信哉も他校に迷惑かけちゃダメでしょう」

射的屋の前で言い争っていた二人が教室の入口を振り返る。
水無月は悪びれた様子もなく、信哉は若干罰の悪そうな表情を浮かべ、それぞれに答えた。

「お前は誰のおかげでそこに立っていられると思うんだ」

「いや、ちょっと白熱しちまって…」

三年B組の生徒達は有馬に兄貴と呼ばれた人物を見て、次にその連れ、有馬へと視線を戻す。

「誰のおかげって、それとこれとは話が別だろうが!」

「もう、その景品はちゃんと返すんだよ」

裕介の言葉に、何やら視線を交わし合っていた三年B組の生徒達はおずおずと口を挟む。

「会長の身内とは知らず失礼しました」

「その、いらない物だけ返してもらえれば…」

「そうだ、兄貴!兄貴だって欲しい物なんかねぇだろ」

口では兄に勝てないと判断した有馬はとりあえず事態を収拾する方向へと話を持っていく。
水無月は欲しいものと言われてちらりと信哉へ目線を流した。

「そうだな…この時間は有意義だったが。橋口、お前は何か欲しい物あるか?」

「俺?そうだな…」

コルク製の弾丸で撃ち落とした景品に目を向け、信哉はその中から駄菓子の箱と子犬のぬいぐるみを指で指す。

「その二つだけで良い」

駄菓子の箱は水無月が、子犬のぬいぐるみは信哉自身が落としたものだ。
三年B組の生徒達はたったそれだけで済んだことに密やかに安堵の息を吐き、信哉にその二つを快く手渡す。
兄と二人、騒ぎを起こしていた割には意外と常識を持ち合わせていた信哉の対応に有馬はぱちりと瞼を瞬かせた。
景品を手に教室の入口を振り返った信哉の視線が裕介へ向けられ、流れる様に有馬へと移る。

「お前は…」

そう何事か言いかけてぶつかった眼差しがすっと鋭く細められる。
有馬は兄を置いて近付いて来た信哉に、どう対応したら良いのかと困惑してちらりと兄を見た。だが、当然の如く水無月は助け船など出してはくれなかった。

「信哉。彼と正式に顔を会わせるのは信哉も今日が初めてでしたよね?」

代わりに有馬の隣にいた裕介がそれが自然の成り行きのように二人の間に立つ。
改めて裕介に紹介される形となった有馬はやや緊張気味に軽く信哉に頭を下げ、逆に裕介から有馬へと紹介された信哉は気安い態度で有馬へと話し掛けた。

「何か邪魔したみたいで悪かったな。…裕介も」

「はっ…いや、俺は」

まさか一言めで謝罪が来るとは思わなかった有馬は戸惑うように返すしかない。
裕介の幼馴染みで、兄貴の友達?だというからもっと別の言葉が掛けられるかと思っていた。

「こいつ、この間見た通り喧嘩の腕はからっきしだから。頼むぜ、水無月弟」

「ちょっ、信哉!何を言って…僕は…!」

そう言って信哉は有馬の肩を叩くと、裕介には頑張れよとエールを送って水無月を呼ぶ。

「腹減ったから何か食いに行こうぜ」

「あぁ」

水無月は有馬の横を通りすぎ様に忠告という名の脅しを落としていく。

「お前の事はどうでも良いが、桐谷の事を悲しませる様な真似はするなよ。それと、橋口から寄せられた信頼も俺を通しての上だってこと忘れるな」

そう言い残して水無月と信哉は戦利品を手に教室を出て行ってしまった。

「ンな事は言われなくとも分かってんだよ、クソ兄貴」

ベッと見えなくなった背中に向けて有馬は舌を出す。

「ったく、余計なお世話だ」

「本当に…信哉ってば。僕のこと心配し過ぎだよ」

互いに漏らした言葉が偶然にも会話のように成立していた。有馬と裕介はハタと顔を見合わせる。

「あー…さっきの橋口先輩?うちの兄貴と違って良い人そうだったっすね」

話を反らす為ではなかったが、有馬は素直に感じたことを口にした。
すると裕介は嬉しそうにふふっと柔らかく笑みを溢す。

「そうなんだよ。信哉は意地っ張りで頑固な所もあって誤解される事も多いんだけど、基本的には面倒見が良くて優しいんだ」

「へぇ、それはまた…モテそうっすね」

どことなく低くなった声音には気付かず、純粋に幼馴染みの本質を理解してくれた有馬に裕介はあれ?と首を傾げた。

「有馬は水無月委員長から聞いてない?」

「何をっすか?」

「信哉は水無月委員長の恋人なんだよ」

「………はっ!?」

有馬の思考が一瞬フリーズする。
恋人とは何を指した言葉だったかと頭の中で再検索をかけて叫ぶ。

「ってことは何か?兄貴の奴、俺をだしに使って現在進行形でデートしてたってことか!」

「え…あぁ、そう言われるとそうなるのかな?」

「信じらんねぇ!俺には釘を刺しときながら、自分だけ良い思いしやがって。それなら俺だって…ねぇ、先輩!」

「っ、」

一瞬煌めいた鋭い双眸に、両肩を掴んだ力強い手。
普段から友人達とは気安いスキンシップを交わしているのか、それと同じ調子で有馬から唐突に両肩を掴まれ、至近距離で見つめられた裕介は突然の事に息を飲む。
どちらかと言えば裕介はこれまで幼馴染みに守られていたせいか、スキンシップには慣れていない所がある。

「向こうがその気なら俺達も思う存分楽しんでやろうぜ!な?」

しかし、不思議と嫌な気はしなかった。それは裕介に触れてきた相手が、裕介の想い人であったからか。はたまたそこに不純な気配を感じなかったからか。
掴まれた場所からどくりと跳ねた鼓動が、有馬に伝わりはしないかと裕介は目の前で閃いた勝ち気な笑顔に見惚れつつ頷き返した。

「うん…。僕も有馬と楽しみたい」

「よしっ!そうと決まればさっそく俺のとっておきの場所に案内するぜ、先輩」

有馬は裕介の右手を取って、歩き出す。
エスコートというにはやや無作法で強引だが、裕介はそんな事は気にせずに有馬と繋がれた手を見つめて薄く頬を紅潮させるとゆるゆると頬を緩めた。
そして、自ら勇気を出して繋がれた有馬の手を握り返す。

「…っ!」

その瞬間、前を歩く有馬の肩が僅かに跳ねたが、裕介がその事に気付くことはなく。同じく顔を赤く染めた有馬は暫く後ろを振り返れなかった。

「何をやってるんだアイツは…」

「っ、そういうお前こそ!ここを何処だと思って…ッ、水無月!」

初々しい二人組が通り過ぎるのを廊下に立て掛けられていた大看板の隙間から見つけた水無月が呟くのを、信哉は口許を押さえ頬を上気させたまましゃがみこんで言う。

「何処って、この前言っただろう?」

「な、なにを…?」

狭い看板の裏で信哉の正面に膝を着いた水無月が信哉の耳元に顔を寄せ、吹き込む様に言葉を続ける。

「俺は据え膳は食う主義だ。…射的屋でムキになってるお前が可愛かった」

「ばっ…」

馬鹿じゃないのかと、続くはずだった言葉は当たり前の様に水無月の唇に吸い込まれていった。



END.


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